本当に必要なのは内需拡大なの?

日本の経済は輸出産業が支えています。世界経済の悪化に伴い、企業業績が悪化しているわけですが、評論家や政治家は「内需拡大」だと言い出しました。1/4の日経記事では、沖縄が比較的堅調なのは輸出産業ではなく内需に依存しているからだということです。
しかし、逆に考えれば沖縄の所得水準が全国でも下位に位置するのはそれが原因といえるわけです。つまり、内需拡大では成長どころか、今回の危機以前のレベルにも回復しないということです。
考えても見てください。今回の危機はアメリカのサブプライムローン問題が引き金で、その余波でリーマン破綻が後押しをしたわけでしょう? サブプライムローンというのははっきりいえば、住宅の買えない人たちに無理やりローンを組ませたわけで、言いかえれば「内需のないところに無理やり内需を作らせる」仕組みだったわけです。その結果、明らかになったのは、アメリカという国は実は消費過剰(バブル)で、本来そんな消費能力はなかったということ。つまり内需の成長性はアメリカのような成熟した先進国ではもうそれほどないということなんです。ましてや日本は人口減少社会。国内の自動車販売が頭打ちで、それに自動車ローンが厳しくなれば自動車販売で内需拡大なんていうのは妄想としかいいようがありません。つまり内需拡大はできないし、できたところで大した寄与はできないということ。せいぜいメリットは沖縄のように諸外国の経済情勢の影響を受けにくいということくらい。
しかし、これすら実は怪しい。バブル崩壊後の日本経済の脱出シナリオの一つは国際競争力(派遣法解禁もその流れの一つ)をつけて海外市場へ打って出ることでした。つまり、内需がダメなときは「海外の成長市場に目を向けなかったから日本は不況になったのだ」という、今回と反対の理屈が出るだけの話なんです。
この手の話というのは、「選択と集中」・「多角化」の議論とよく似ています。本業で失敗すれば「多角化リスクヘッジすべきだった」と批判され、多角化で失敗すれば「経営資源が分散され、本業も衰退してしまった」みたいな言い方をされる。理屈としてはどちらも間違いではなく、要は程度の問題なわけで、「内需拡大」「外需拡大」、「選択と集中」「多角化」、「成長性」「安定性」のいずれにシフトすべきかというのは時代の情勢による相対的なバランス変化の問題でしかないのです。


つまり、マスコミのいうような単純論は所詮単純論なので、鵜呑みにしないようにということ。
ただし対症療法的な方向性としてはおおむね正しいとはいえるかもしれませんが。


もう一つお題を。日本のバブル崩壊以降の問題の原因は「3つの過剰」論といわれてきました。すなわち「債務」「設備」「人員」の3つ。しかしこれも不況だからという情勢論で過剰であると認定できるだけの話。しかもそれも正しいとはいえない可能性だって本当はあるのです。たとえば前述の内需拡大ですが、これが回復・成長へとはつながらないとはいえない可能性もあるのです。ただそのためには製品・サービスやワークプロセスのイノベーションが必要で、すべての企業にそんなイノベーションがポコポコと出てくるわけもないから、大勢として私は否定しているだけの話で。3つの過剰でいえば先行した設備投資や人材の囲い込みが後々強みに転化することだって可能性としては否定できないことは容易にわかります。せいぜい債務過剰だけはどんな経済情勢でも当てはまりそうな理屈ではありますが、これとて結局資本コスト次第。株式市場からの調達コストよりも金融機関からの借入コストの方が低ければ債務が多くても一概に問題とはいえないわけです。

話はちょっと変わりますが、今回の世界経済危機が、新自由主義経済の敗北だとか金融工学の誤謬という論調があります。しかしそういう問題より(というかその辺の議論は正直よくわからん)も、常識はずれの過剰な金融レバリッジで膨らんだ信用経済と実体経済の乖離が問題(これって日本のバブル崩壊の図式とまったく変わらない)であって、デリバティヴであろうとスワップであろうとこれら金融の道具自体は罪がないし、経営の道具として必要なのは間違いありません。もう一つ加えるなら、アメリカ型のグローバル・スタンダードである株主中心主義がもたらした短期的視点による経営や、それにリンクした形での金融系従事者の異常なレベルの高所得(労働対価として労働量や需要と見合っていない…と思うんですが)というゆがみがもたらした結果で、それを後押ししたのが新自由主義経済的な思想であったと思います(昨年のノーベル経済学賞ポール・クルーグマンが徹底的に批判してます)。またロバート・キヨサキ的な思想(「コツコツ働く」労働観の軽視、ただしこれはネットワーク・ビジネスの連中とか投機的なデイトレーダーらの曲解)も、結果的に非常に社会に悪影響を与えたように思えます。